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象 を通して知る事、学ぶ事、出会う人達

「市原ぞうの国 」を初めて訪ねてから まもなく1ヶ月が経とうとしている。

「ぞうの国」は、北海道、新潟、神戸などで閉園した動物園のゾウや、
サーカスのゾウを引き取ってきた。言ってみれば 行き場のなくなったゾウを
救ったのだし、引退ゾウが暮らせる「ゾウの楽園」を構想し 用地も購入している。

ゾウが自治体の「備品」でしかなく、ゾウのためを考える現場の声が実現に向けて
なかなか生かされにくい公立動物園に比べれば、 少なくても何らかの理想を
求める動物園の姿があるのではないか、と思った事もあるだけに、訪ねた後、
どうしても心につっかえる何か" 取れないままでいた。

何か とは、突き詰めれば「商業主義」と動物の命の問題に行き着くのだけれど、
もしかしたら、私の動物観が偏っているのかもしれない。
そう思って、努めて人に会うようにして、自分の考えや思いの反応をうかがったり、
あちこち動物園を覗いたり、様々な本に目を通したりしていた。

その間、ゾウが直面する問題ばかりでなく、犬や猫を殺処分する異常な数字に
目を向けない訳にいかなかったし、それは、実験動物や食用となる家畜動物の扱いにも
通じてゆく。それなら いったい日本は動物に関してどんな教育を行ってきたのか、
そんな疑問が頭をもたげた。そして 動物園の意味も改めて考えざるを得なかった。
そうやって 何だかどんどん泥沼にはまって行くような1ヶ月だった。

動物をかわいい、と感じることは 悪いことではないし、その感性は、動物や他者、
あるいは 自然を慈しむ心に通じてゆくはずだ。でも「かわいい」で終始してしまう
感性とも言えない感性を、「ぞうの国」は助長している印象を私はぬぐえない。

ヒトの娯楽のために 曲芸させられる動物を 擬人化して親しんだり
「ふれあい」の名の下に集められた猫を、支払えば 好き放題触れる事、
檻の中の動物に 何の疑問も持たずに餌を与える、など もし 命や動物に対する
適切な指導がなければ、無垢な子供を混乱させることにならないだろうか。


石田戢 氏は著書 「日本の動物観」(2013) の中でこんな考察をなされている。

「(日本人は) 動物と人間との関係に なんらの原理を求めて、
そこから動物の取り扱いを導き出そうとする思考スタイルは持たない。
動物との関係に社会的なルールもなく、その時々の社会事情で決められ、
なおかつ 個人的である。」

更に

「(日本の社会は) 動物園動物を含め なんらかの話題性をともなう場合をのぞき、
野生動物への関心、とくに科学的理解は おそらく絶望的であろう。」

絶望的と言われて 快い気持ちはしないが、東京の動物園長を務められながら
社会の流れと 動物の関わりを見て来られ、ヒトと動物の関係における長年の
調査や研究の過程こそ興味深い。

歯切れ良く読み応えはあるが、読書後は行き所なく やはり頭を抱えてしまうのだが。

石田氏によると、私などは 「バンビ シンドローム」におかされた可能性は充分ある。

幼少の頃観た ディズニー映画 元祖 「バンビ 」の場面は、今でも鮮明に
記憶に残っている。何日も泣き続け 母を手こずらせたらしい。

この映画は 当時社会に 可愛らしさ、無垢な動物への感情移入をもたらした
というが、バンビがかわいそうなのは、全て人間のせいだとし、
「人間社会を悪の権化として、全ての原因を人間へと還元して思考停止する。」
というバンビシンドローム 現象を起こしたという。
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バンビ シンドローム は 病理現象ということだけれど、病気だ、と言われても
こと ゾウがたどってきた歴史だけに限っても 全て人間が悪い!と泣き叫びたくなる。

「ぞうの国」のゾウ達は、もしかしたら 動物園にひとりぼっちで暮らすゾウより
仲間が一緒で幸せなのかもしれない。もしかしたら 狭い動物園で 牢獄に入った
ような思いをするより、曲芸でも働いている方が楽しいのかもしれない。
もしかしたら 祖国で住みかを追われたり、地雷を踏んだり、
密猟者に殺されたりするより、、、

でも、それは ヒトが自分の都合よい様に代弁することじゃない。
少なくても 日本に居るゾウは皆、
ゾウがゾウらしく生きることを奪われて連れて来られている。

そうして 遠い日本に来てくれたゾウ達から学ぶものが 「かわいい」のひと言で、
ゾウの鼻にぶら下がった子も、鼻で帽子をかぶせてもらった子も
大人になった時には ゾウが何処にも居なくなるかもしれないこと
それが 何故かも知らない なんて。









































無論 育った時代、環境や教育 に依る、と言ってしまえば簡単だけれども
例えば 日本全国で動物の殺処分の数は 半端でなく、個人個人の問題というより
大きな社会問題であると思うし、無差別殺人や イジメも決して無関係ではない様に
感じる。

私の時代も含めて、日本は子供達に 動物の命をどう教育してきたのか、
動物園の 「ふれあい」コーナーは、動物を愛する子供を育てるのか、
そんな事を ドロドロの深みにハマって行く様に考えていた2週間だった。


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# by maria-elephant | 2017-03-23 23:49 | 動物のいのちを考える | Comments(0)
見つけた!
「ふれあい」という言葉が 動物園の活動に使われ始めたきっかけ。
それまでは、「おさわり」だったそう。 ( 笑える!)

1974年 にヒットした 中村雅俊 の「ふれあい」という歌のタイトルから
頂いたキャッチコピー とのことだそう。

異議を唱えるつもりはないの。「おさわり」よりは 感じ良いけれど
触られたくも 触りたくもないのに、「ふれあい 」と言われるのは
動物側の言い分としては、アンフェア な気がする。
結局 「おさわり」の方が 内容に偽りなし だ。

ちなみに
家では、動物を「飼う」と言うけれど、
幼稚園、学校では、動物を「お世話する」と指導するそうだ。
飼う よりは お気軽な 陰謀の香りが漂う。
実際 "不慮の事故" で 命を落とす小さな動物は 多いらしい。

もうひとつ膝を打ったのは 「カワイイ」という言葉。

動物園にいると、あっちからも こっちからも
「カワイイ!」が 聞こえてくる。
ミーアキャットも、ライオンも、フクロウも、ゾウも 「カワイイ!」

ま、本当にそうなんですですけど、ボキャブラリーが貧困過ぎません?
と、言う私も日常生活では 「ステキ」「カワイイ」で 事済ませることは多い。

ある方に言わせると、「カワイイ」は、
「自分が評価を下したことへの 共感を求める言葉」なのだそう。

つまり 対象の内容を言及する事を避けながら 相手に何らかの了解
得るための安全な言葉 というわけだ。なるほどね。

このあいだ動物園で、
「トランプ、カ〜ワイイじゃん」
と言ってる声も 聞いた。


(参考:日本の動物観 /石田戢 他著)







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# by maria-elephant | 2017-03-03 09:38 | 動物園 | Comments(0)

秋田県大館駅に到着すると、2匹の秋田犬が出迎えてくれる。
ハチ公の主人になれる様な、犬好きにはたまらない そんな活動があることを
何かの雑誌で読んだのを思い出した。

毎日いったいどの位の人を出迎えるのか、まさか ハチ公みたいに犬だけが
駅で待っているわけではない、としたら 人だって拘束時間が大変だろうな、と
その時は 当然ボランティア活動の一環として 印象に残った。

気になって調べてみる。

昨年12月3日にスタートしたお出迎えは、今年の年明けから
犬達の体調不良もため 活動中止 となっていた。1ヶ月も続かなかったわけだ。

犬達は 大丈夫なのかしら?

更に気になって 資料を見ると驚いたことに
大館市の観光課が、出迎え犬のサイトを載せていた。
つまり 犬は大館市が所有しているらしい。

大館市は秋田犬の原産地なのだ。渋谷のハチ公もこの土地の生まれらしい。
そこで 地域活性化のために、生きた秋田犬を活用しよう、
という事になったのだろう。犬の名前は公募で決められた。

どういった経緯かは分からないが、県外 から4人の女性が選ばれ大館市に移住。
昨年9月より 4人と仔犬達が一軒家をシェアした共同生活が始まったという。
3年という期限付きのお試し契約であることも 計り知ることができる。

4人の女性は トレーナーでも 犬の専門家でもない。
9月に 2ヶ月半でまだ仔犬とはいっても、秋田犬である。
特殊な訓練を受けた様子もなく、みるみるうちに大きくなった。

SMS へのPR発信も 4人の仕事の内らしく
12月3日にスタートした 出迎えは、多くの人が犬に触れ
喜んでもらえている様子が伝えられている。

今後も 清掃活動、施設訪問、防犯パトロールなど 仕事を募集してゆく、
と 犬のプロも顔負けのプロジェクトに 2匹は組み込まれているのだ。

そして、突然、犬の体調不良のため活動中止の告知。
それ以来、Facebook は更新されていない。

犬達の立場で考えれば、2ヵ月半で親犬から引き離され (早すぎる!)
突然 知らない人から触られる日々のストレス蓄積は考えられることだ。

犬が落ち着いて リラックスしている、と私達は思っても
実際には 諦めている無力感状態でもあり得る という報告もある。

そして、たとえ元気になって活動が復活しても、4人の女性は 飼い主ではない。
いつか犬達は 捨てられるにも似た精神状態を持つ事になるかもしれない。

誰を責めるつもりはない。
むしろ スタッフは皆で犬達を可愛がっていらっしゃるに違いない。
しかし、最後は 動物に依存して
誰も 犬達の心に責任を持たない仕組みになっていること が腑に落ちない。

地域活性化目指すこのプロジェクトは
「秋田犬ふれあい隊」というのだそうだ。
http://www.dodasuka.com/2016/12/11/asukaako_freai/

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# by maria-elephant | 2017-03-01 21:07 | 動物のいのちを考える | Comments(0)
ペットと 長年暮らしたことがある人なら思い当たると思う。
日常 無意識に彼らに話しかけている場面は 意外に多い。
どう思う? なんて 意見を求める事さえ (当たり前の様に)あるかもしれない。

「思い入れ」だとか、幼稚な擬人化 だとか、エサを待っているだけじゃないか、
などと 心ない人は 私達オトナには手厳しいが、子供がペットや動物に話しかける
ことは 案外受け入れているのではないだろうか。

実際、子供は自然に 親や友達にも話せない悩みごとをペットに相談するのだ、
という。ペットは 自分を厳しく評価したり非難したりすることがなく、
無条件に自分を受け入れてくれる存在でもある。(前ブログ 動物介在教育入門より)

そう言われると、私自身 思い当たるのは、井の頭公園に居た はな子さんである。
幼少の頃、動物園近くに通ったピアノの先生宅での無慈悲なレッスンの後、
はな子さんに被害状況を訴えたものだった。

自分が守ってあげるべき 小さく 可愛い動物ではなく、象のはな子さんであった事も
納得できるのは、歳の割に身体が大きく 長女であった為だろう。いつでも
お姉さんなのだから、大きいのだから、と 過度の期待を背負わされていた。

優しい目をしたはな子さんは、そんな私をも守ってくれる絶対的な存在だったはずだ。
それに、告白すれば、はな子さんと共謀して犯したリベンジは 少なからずあった。
(その暴力的ピアノ教師は はな子さんに踏みつぶされたことになっている。)

子供のころは、はな子さんに頼んで踏み潰してもらった「嫌な事」も
大きくなったら 自分の心の中で "踏みつぶし" 乗り越えることを
はな子さんは 教えてくれたのだと思う。

話が外れてしまったが、全く関係ないわけでもない。
動物が子供に与える、あるいは子供から引き出すそんな力を信じる
アニマル セラピー と呼ばれる 動物介在教育法もあるのだ。正確には
動物介在療法 と言うべきかもしれない。
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この本は 1999年に アメリカ ソルトレイクシティーの図書館で始められた
「子供が犬を相手に本を読み聞かせする 」というプログラムの経緯を
ノンフィクション作品 として構成されたものだ。

看護師をしていたある女性が、翌日 殺処分になるはずだった犬を救い出して
セラピー犬の訓練を施した。愛らしく 忍耐強い その犬の素質を見抜いた女性は
ある時、とんでもないアイデアを思いつく。

家庭の事情で暴力的な少年、本を読むのが嫌いな子、聴覚障害を持つ子など
様々なコンプレックスを持つ子供達だが まず ふわふわとして 温かい犬に魅了
される。たどたどしい読み方でも おとなしく聞いてくれる犬に、子供達は
心を開いてゆく。このプログラムの成功が話題となり 活動は全米に広がって行った。

大事なことは、子供も 犬も楽しんでいる時間をシェアすることだ。

アニマル セラピーは、犬と飼い主の信頼関係があって初めて活動可能になる。
セラピー犬は、常にボランティアの飼い主と共に居ることがルールであるという。
犬は ストレスを最小限に抑え、安心して落ち着きを持続できるからだ。

あ、この部分だ、と思った。
「ふれあい」コーナーで感じる微笑ましいながらも 痛々しい何か。

セラピーはともかく、動物を 「教材」 あるいは 「道具」としてとらえる傾向に
ある日本の社会では、動物との「ふれあい」は 動物に負担がかかり過ぎるか、
動物に犠牲を強いているようにしか思えない場面が多すぎる気がする。

動物と絆を持てることは、子供だけでなく 大人にだって素晴らしい可能性がある。
でも、動物は 決して 「魔法の杖 」ではない事も この本は教えてくれている。















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# by maria-elephant | 2017-03-01 09:22 | 動物のいのちを考える | Comments(0)
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2人の著者の専門分野は 「人間動物関係学」。
"飼育動物や ペット、野生動物、家畜など 動物を飼うこと、動物と共に生きること
について考える" 新しい研究分野なのだそうだ。

あとがき によると、著者の幼少時代は まだ自然が豊かで、様々な生き物に
ふれる機会が豊富だった、と仰るから、恐らく私と同年代でいらっしゃるかも
しれない。急速に進む自然環境の荒廃、社会システムの変容が 著者の目を
この分野の研究に向けさせた という。

私はといえば、先週、「市原ぞうの国」での動物との接し方もさることながら
"ネコとふれあいコーナー" (¥300支払ってネコに触り放題) で垣間見た光景が
気になり、動物との「ふれあい」とは何なのか
改めて考えていた所で出会った本だった。

最近、どこの動物園でも「ふれあいコーナー」が設けられており、たいていは
モルモットや ヤギ、ポニーといったところだが、子供も大人も直接抱いたり、
撫でたりして楽しんでいる。一応時間は限られて、飼育員の管理下のもとで
行われるはずだ。

動物が好きでも 自宅で動物を飼えない状況にあったり、こんな機会がある事で
動物に興味を持ったり、好きになる子供もいることだろう。

ただ、誰が使い出した言葉なのか、「触れ合い」が 「ふれあい」とひらがなになる
事で 何か誤魔化される部分が無きにしもあらず ではないだろうか?
ヒトが 一方的に触らせて頂いているのに。

子供への情操教育を担った動物は、保育園、幼稚園、小学校でも多く飼われて
心の成長に貢献しているはずなのだが、著者は長年の研究対象の事例から
その問題点も浮き上がらせる。

ウサギの尻尾を引きちぎって、取れちゃった とぬいぐるみと区別がついていない子、
ハムスターを事故で死なせてしまっても、また買ってくればいいじゃん、と言う子、
強く抱きすぎて窒息させる、あるいは 立ったまま抱いて落としてしまい骨折させる。

著者は、そんな事例から 動物と触れさせる前に、先生や保護者が子供達に
動物の扱い方をちゃんと教えなければいけない、と考えるのだが、
そのうちに 保護者や先生こそ 動物固有の生態や習性を知り、命の重みを感じることが
必要なのだ、と思い至ったに違いない。(直接的には書いていないけれど)

「動物は魔法の杖ではない。」 控えめながらにも著者はそう繰り返している。

子供が 動物を育てることで、 他者を思いやる共感力を養い、豊かな感性や
自尊心、自制心、自立心が芽生えるのは 様々な形で証明もされて来た。
しかし、動物を飼うだけで 自動的にそれらが達成される訳ではない。

そんな「当たり前のこと」が 当たり前でないことを 認識しなければならないほど
ヒトと動物の関係は 変容してきている。

飼っている動物に対して 子供がどれだけ愛情を持って接っするかにより
心に育まれるものは異なるし、又 保護者や 先生の飼育に対する無意識の気持ちは
そのまま子供に伝わることも知っておかなくてはいけない。

「動物の生態 習性を体験的に教えつつ、
動物の気持ちを理解する心を育もう、とする努力を積極的にしなければ、
子供は虐待しているつもりはなくても 動物は苦痛に苛まれている。」

私が 市原ぞうの国にあった 「ネコとのふれあいコーナー」で感じたことも
結局 そういう事だったと思う。

「ぞうの国」に 猫を捨ててゆく人も後を絶たないそうだ。そんな猫達を救う
優しい気持ちから生まれた「手立て」なのかもしれない。でも 見た限り
その気持ちが伝わっているとは思えない。

どうしたらよいか、
著者は マニュアルとしてではなく、事例を上げながら動物介在教育の課題
可能性を提示している。

つづく。











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# by maria-elephant | 2017-02-27 16:02 | 動物のいのちを考える | Comments(0)